上野寛永寺に立ち寄ってみました
2016/12/06
おはようございます。
今日は朝から雨模様ですが湿気が多くてムシムシしますね。
残暑厳しい日がまだまだ続きますが、
先日裏の公園には赤とんぼが飛んでいてもう秋の気配が感じられます。
さて一昨日の日曜日に上野桜木に行く用事があった帰りに寛永寺に立ち寄ってきました。
小さいころから上野の山は遊び場所で、
昔も今もこの寛永寺の前は良く通りかかるのですが改めて寛永寺を訪れるのは初めてです。
春にはこの寛永寺のしだれ桜が大変きれいで、毎年お花見ではこの寛永寺のしだれ桜を見るのが楽しみになっています。
上野の寛永寺は徳川家の菩提寺の一つとしてその名が知れ渡っています。
徳川歴代の15代将軍のうち4代将軍徳川家綱を含め6人がここ寛永寺に眠っています。
TVドラマの水戸黄門で良く見かける徳川家の葵の御紋。
徳川家の菩提寺の寛永寺の瓦屋根やいたるところには徳川家の葵の御紋が見られます。
上野の山は昔、そのほとんどが寛永寺の土地であったことからもその広大さがよく分ります。
江戸時代の後期、寛永寺は30万坪にも及ぶ広大な敷地を有していて、
その中に沢山の寛永寺子寺があったようです。
この事からも当時の徳川家との密接さがうかがえます。
この事から今回訪れたのは上野桜木にある寛永寺なんですが、
この上野の山一帯はほぼ寛永寺関連の建物が建ち並んでいることに納得です。
寛永寺は東叡山寛永寺と呼ばれていますが、
これは天台宗本山の比叡山が京都御所の鬼門に位置して、当時の朝廷の安泰を祈願するお寺でありました。
寛永寺は東の比叡山として、
徳川家の安泰と民の平安を祈願するための江戸城の鬼門にあたるここ上野の山の建立されたことからこの名があるようです。
こちらが寛永寺根本中堂です。
いわゆる寛永寺の本堂です。
当時の寛永寺は、東照宮、多宝塔、輪蔵、五重塔、清水観音堂が先に建造されて、
この根本中堂は開創から70年経ってようやく建てられたようです。
江戸後期に莫大な影響力を持ていた寛永寺ですが、
幕末の薩摩・長州の薩長軍と幕府の間で繰り広げられた戊辰戦争(ぼしんせんそう)にて主要伽藍を焼失してしまします。
その後大政奉還後の明治政府が寛永寺の敷地を没収するなどがありましたが、
明治12年に寛永寺の復興が認められ、
現存の場所に根本中堂を建立。
この根本中堂は川越の喜多院本地堂を移築した建物です。
根本中堂の横を通り抜けると建つ門。
左側には社務所があります。
残念ながらこの門の中へは入ることが出来ません。
寛永寺には多くの建物がありますが、当然なんですが中に入ることが出来ないものが多いです。
この門の格天井です。
お寺に立ち寄るといつもこのように天井や屋根や垂木に目が釘付けになります。
根本中堂につながる中廊下。
おそらくこの廊下は後から造られたものでしょうね。
中廊下をくぐると現れる広大な敷地。
改めて寛永寺の大きさを感じます。
この先にある場所は徳川家の霊廊になります。
当然ここも中は見ることはできませんが、
右側に見える門は勅額門で御霊廊につながります。
左側の建物では徳川吉宗の法要が行われるそうです。
この建物は当時のまま残っているそうで、寛永寺の建物に多い重要文化財の一つに指定されています。
この勅額門をバックに写る奥は上の公園で、
右側の建物が上野中学校です。
この上野中学校が見えて今立っている場所が分りました。
改めて訪れてみると歴史の中で寛永寺がどのような役割を果たしてきたのかがよく分りました。
寛永寺はこの場所以外のも五重塔など沢山の建物がありますが、
今回はこの上野桜木にある寛永寺を訪れてみました。